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私たちは賢いのか | ハンスの勉強

私たちは賢いのか

あなたは理解しているか?

賢い人を知識の量が多い人と仮定する。

知識は世界への解像度を上げるものであることは周知の事実である。

世界への解像度を上げればあげるほど、世界がぼやけていることに気づきやすくなる。

つまり、知識の総量を増やすことは、無知の総量を増やすことだと言える。

全知を宣う者はなんと信用ならないことだろうか。

それを危惧したソクラテスは問答法をソフィストたちに施した。

結果、彼は投獄され毒を飲み死んだ。

彼は恨みを買ったのだ。

無知を自覚することは今までの自分の否定につながる。

全知に至り神に近づいた心持ちが何も知らない小さな存在に叩き落とされるのである。

そもそも私たちは小さな存在である。

それを忘れて驕るのは自分を知らないからである。

自分を知らないのは行動がないからである。

行動がないのだから失敗もなく、過信を続けてしまう。

行動がないものは自分の能力が天にまで伝わると驕ってしまう。

しかし、一人にも伝わらないことも多い。

だが、自分を素晴らしいものだと過信し、その過信をアイデンティティのように大切にし、否定されることに大きな不快を示す。

楽観的な過信が驕りを生み、人は愚者となるのだ。

まともな評価の自分より、過信した自分の方が魅力的だ。

そして、愚者たちが集まり、大いなる誤謬を犯す。

それは、見積もりであったり、環境破壊であったり、戦争であったりする。

人間というものはそもそもそういった性である。

楽観的でなければ、生き残れなかったのだ。

私も明るく楽しく暮らすことを否定しているわけではない。

ただ、過信を驕りを捨てることをしなければならない。

過信や驕りの発生源は、知識の欠乏と無知の知の実践と行動の不足だ。

知識を蓄え無知の総量を増やし、無知であることを前提として生活し、行動することで自分の無力を知る。

もっと言えば、失う覚悟と失われない蓄積を持つことだ。

失われる覚悟とは自分の無力さ認めることであり、失われない蓄積とは知識の蓄積である。

この二つがあることで、行動が生まれる。

この思想はユダヤの思想に由来する。

ユダヤの民は迫害を受け続けた民族である。

自分の外にあるものは奪われ、自分の中にあるものだけが残る。

この世の真理を著した血生臭い言葉だ。

だが、この世界が悲しい世界だと言いたいわけではない。

何度も言うが、世界は楽しく生きなければすぐ死んでしまう。

ただ私は、足元を見ながら胸を張って笑って生きていこうと思うのだ。

私の話で君たちはどう生きるか考えてみてほしい。

説教くさくてすまない。

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